參考:
鳩居堂官方網站(僅日文):http://www.kyukyodo.co.jp/
官方網頁/關於鳩居堂:http://www.kyukyodo.co.jp/about/history.html
鳩居堂wiki條目(僅日文):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%85%E5%A0%82
翻譯:某檄不負責任獨斷翻譯
相關資訊版權等全歸於鳩居堂及引用出典之原作者,某檄僅翻譯給看不懂日文的人閱覽,並無收受任何費用。
---------------------
1180年(治承4年)源賴朝贈與「相面對的鳩(向かい鳩)」的家紋,給了在軍事上活躍的熊谷直實。直實在1186年(文治2年)討伐平敦盛時十分活躍,但在1193年(建久4年)出家,成為法然的弟子,歸依法名為「蓮生(れんせい」。
*鳩はと
鳩の紋とは珍しいですね。しかしある種の動物は、いわゆる神の使いとして古来より、家紋のモチーフとして採用されてきました。なかでも鳩は八幡大菩薩の使いとされて、勝利を呼ぶ瑞鳥として、様々な記録に登場しています。平安時代には平家物語にも登場する熊谷直実が、軍功により源頼朝から「向かい鳩」の家紋を下賜されたという逸話が残っています。
鳩は軍神とされ、八幡大菩薩の神使。八幡宮の神官である宮崎氏が、鳥居に鳩紋を用いたのは、 この故事による。また、『吾妻鏡』には、千葉介常胤が軍旗 の上方に伊勢大神宮と八幡大菩薩を、下方にに 対いあった鳩二羽を白糸に縫い出したことが記されてある。
鳩紋のなかでは、寓生(はや)を添えたものがもっともよく知られている。 寓生は、欅、榎などの喬木に寄生する常緑植物で、 寄生木、飛蔦ともいわれ、平安時代から織文として愛好された。 江戸時代には、旗本の高力、根岸氏が用いている。 鳩に寓生紋は熊谷氏の代表家紋。
-参考文献 日本「家紋由来」総覧-
*熊谷直実(くまがいなおざね)1141~1207平安時代~鎌倉時代の武士。平家物語では平敦盛を討ったことで殺生の虐しさに気付き出家したとされる。
1663年(寬文3年),直實開始數來的第二十代子孫,被稱為是直心(じきしん)的藥種商,在現在的場所(鳩居堂京都本店,京都寺町の本能寺門前)開業。屋號為儒學者‧室鳩巢,取於『詩經』的召南篇的「維鵲有巣、維鳩居之」之命名,從喜鵲之巢託蛋的鳩的樣子而來,以「店是為了服務客人」之謙讓心而經營而設的屋號。同時,此屋號用了「相面對的鳩」的家紋,與室鳩巢雅號並用。
*鵲巢
鵲巢,夫人之德也。國君積行累功,以致爵位;夫人起家而居有之,德如鳲鳩,乃可以配焉。
維鵲有巢,維鳩居之;之子于歸,百兩御之。
維鵲有巢,維鳩方之;之子于歸,百兩將之。
維鵲有巢,維鳩盈之;之子于歸,百兩成之。
*室鳩巣(むろきゅうそう)1658~1734江戸時代中期の儒学者。徳川家に仕える。享保の改革を補佐。
*官方網站另有鳩居堂之詳解:
『鳩居堂』という屋号は、儒学者 室鳩巣によって、中国の最古の詩集といわれる「詩経」の一節「維鵲有巣 維鳩居之」(これかささぎのすあり、これはとこれにおる)からとったといわれております。このことは、江戸中期に鳩居堂4代目主人と交流のあった儒学者 頼山陽が書いた「鳩居堂記」という巻物に記されています。
「これカササギの巣あり、これ鳩之に居る」という詩の訳は、まさに「カササギの巣に鳩がいる」ということで、鳩は巣作りが下手でカササギの巣に平気で住んでいる、すなわち『借家住まい』ということを意味します。
あるとき、4代目主人は、ある人にこう尋ねられました。
「鳩居堂は既に4代、百余年にも亘って老舗として繁盛しており、自分の店舗もしっかり持って営業している。これを称して借家住まいという屋号は、おかしいではないか。」
返答に困った主人が山陽先生に助けを求めました。
山陽先生の答えは、
「家であれ国であれ、自分一代で成ったものではなく先祖代々受け継いできたものです。謂わば先祖の家に借家住まいしているようなものであり、もともと自分のものではない。そもそも国家や商売が衰えたり滅びたりするのは、そのことを忘れて自分のものだと思い、過ちを犯すからで、先祖からの預かり物だと思えば決して疎かにせず、つぶれることもないのです。鳩居堂はその名の如く、店を自分のものと思わず慎み深くやっているからこそ繁盛しているのです」という内容でした。
つまり、「店は先祖そして世間からの借り物、預かり物であるということを忘れずに、謙虚な気持ちで商いに励め」という戒めの言葉が、まさに屋号の『鳩居堂』に込められているわけです。
「店はお客様のもの」という謙譲の心が込められたこの屋号を、ご先祖から後世への戒めの言葉と受け取り、大切にしています。
出典:http://www.kyukyodo.co.jp/about/history.html#no07
1700年代(元禄13年)開始,開始製作了藥與香之原料共通的薰香。另外,也開始從藥材原料輸出國的中國,進了書畫用品的販售。
1789年(寛政元年)與文人墨客賴山陽、池大雅﹑田能村竹田等開始交流筆墨等使用之際,開創不輸給中國製的獨門技術。1800年代(寛政12年)初期,賴山陽監修的改良筆及墨完成,其後留下了「鳩居」及「筆研紙墨皆極精良」之揮毫墨跡,於「鳩居堂記」的長文卷誤留存。
*頼山陽(らいさんよう)1780~1832江戸時代の歴史家、漢詩人、陽明学者。美術の分野でも能書家として著名である。
1850年代後(嘉永3年前後 ※約是世間第二次至第三次大流行期間的事情),第四代熊谷直恭,與文人墨客交流後開始以社會福利為職志,設立了有信堂種痘所(作為天然痘的預防接種),盡心針對霍亂弧菌提出對策改善,但熊谷直恭在1859年自身染上了霍亂而結束了多彩的一生。
1860年(万延1年)前後,第七代的直孝接繼了直恭的思想及行動,為了國事奔走,熱中於教育事業,在有信堂的寺子屋設置了稍微有組織化的教育學堂,此為日本全國最初的小學校開設之根基。1869年(明治2年)日本最初的小學校柳池小學校開校(依於1947年的新學制中成為柳池中學校,現在與城巽中學校合併為御池中學校)。
熊谷直孝死後,1903年時,追贈授與「贈從五位」的榮譽。
1877年(明治10年)自第四代的直恭以來,被認為所實行的社會福利及對於國營事業的貢獻之認可,當時的太政大臣三條實美對第八代的直行,傳授了起自平安時代的「宮中御用合香」的秘密調和法之傳授。此調合法在當今亦由鳩居堂的當主繼承。
1880年(明治13年)為了宮中御用勤務之必要,在銀座尾張町(現在的銀座5丁目)建造了木造平屋建(於明治初年初為外國人建築的建築物),開設了東京出張所使用。
1891年(明治24年),宮內省御用們的制度之制定,成為皇室御用業者之一,直到此制度在1945年廢止為止。
1906年時,火災前的京都本店,有著當時很珍貴的瓦斯路燈。
1913年(大正2年)9月6日,京都本店在火災中全數燒毀。京都本店火災後,重建前的集合合影。
1914年(大正3年)火災後改建的京都本店。改建後的紀念。因火災的店鋪燒失重建,也重新製作了看板,作者沒有被確實言傳,有可能是羅振玉(1866~1940),也有一說是山田古香(1852~1935)。
1924年(大正13年)12月6日,東京支店改建。
1930年(昭和5年)間,鳩居堂曾有名古屋分店,但現在已經沒有了。當時,名古屋分店位在:名古屋鉄砲町1丁目。
1942年(昭和17年)在個人組織的鳩居堂,分割為三個法人:製造部門=鳩居堂製造株式會社,販賣部門:株式會社京都鳩居堂、株式會社東京鳩居堂。
1952年(昭和27年)鳩居堂保有的親筆手書-藤原行成『仮名消息』被指定為日本國寶。
1995年(平成7年)鳩居堂製造的工房完成,融合了傳統的手工作業及生產化自動工程。
現在依於「不變的日本心,孕育守護著傳統文化」之使命,謹慎地與社員一同鑽研。
今後也請帶有暖意地支援及給與賜教。
P.S.東京的鳩居堂本店,是位在日本全國地價最高的地方,2015年時,一平方公尺要價2696萬日幣。
地價調查自1956年開始,1971年連續十六年最高價,1972年至1985年間最貴地價曾讓給新宿高野本店前,但1986年至今三十年連續都是日本第一高價的地段。